一宮市にある尾張猿田彦神社。安産祈願や厄除などの祈願・御祈祷、工事中の安全を願う地鎮祭など。
〒491-0201 愛知県一宮市奥町風田 67-1 TEL:0586-61-2713

神社の御案内

御祭神の御働き

御祭神の御働き

猿田彦大神〜導きの大神〜

猿田彦大神

本神社の主祭神「猿田彦大神」は、古事記の神話の中に登場する大神で、天孫降臨の時、「天照大神」の命を受けて「天津彦火瓊瓊尊(あまつひこほのににぎのみこと)」が、天ツ国より下降する途中の道が八方へ分かれている天八衢(あめのやちまた)で、爛々と光り輝く大神が立ち向かえ、先導して中ツ国の日向国の高千穂に案内された大神様です。

この神徳により、現在も神幸行列の時は、「吾れ、先に立って道を開かん」と舞踊をしながら祓い、一行の安全を守って善い方へ道を開き、導かれる大神様です。故に今も、人々を明るく希望のある方向へ行く先を「啓発」する大神様です。また、「土公神(どこうじん)」の名で知られており、「葦原中ツ国(日本の古名)」に元来より存在される土地を司る大神様です。

記紀によれば「猿田彦大神」は、背の高い威風堂々たる容姿で、天狗のように鼻が 高く、唇は明るく輝き、長い口髭をはやし、眼は八咫鏡の如く爛々と照り輝き、この神に「目勝つ(まがつ)神」は無かったとあるほど、強い力の持ち主であり、眼力の強い大神として知られています。

由緒

奥宮と本殿

本神社の奥宮は、愛知県一宮市奥町地内の河川敷内の松林で通称『大巻山』と呼ばれる猿尾(さろう)の中ほどに鎮座しています。奥宮は旧渡船場の南にあり、神領地として神宮御遷宮のとき、筏の御用材が伊勢湾に入るために縄を絞め直す場所でした。
無事に御用材が届けられるよう導き守っていただくために『猿田彦大神』『天宇受売大 神』の二柱が『千勝神社』『宇受売神社』としてお祭りされています。この奥宮は由緒正しき場所として、昭和28年の第59回式年遷宮の際に神宮第三の鳥居が下げられ神宮遥拝鳥居として建立されました。
本殿は奥宮の東、堤防を挟んで五百メートル程離れた奥町の街中に、ご神託により本神社「尾張猿田彦神社」が御神徳を広めんと御造営され、鎮座しております。

奥宮周辺の今昔

木曽川と大巻山

大巻山

『大巻山』は、木曽川の左岸の奥町地内にあり、現在の木曽川が「尾起(おこし)川」と呼ばれ80メートルほどの川幅であったものが、天正14年旧暦6月24日(1586年8月9日)の大洪水で、一晩で現在の川幅(奥町で700メートル以上)が10倍以上の大河となる、切れ所は108ヵ所有った。
それ以前は尾張に7筋の川があったとされている。現在も濃尾大橋の北左岸の川中に尾起川の堤防跡が見える。

木曽川

尾起川以西を天正12年美濃に国替えし大洪水で濃尾の境とした。以後何度も大洪水が起こり甚大な被害が繰り返された為、奥町の北と南に「萬度社」(1591年頃?)を設けて切れ所の流れを弱め、変える役目をする猿尾(さろう)を石と土砂で山の様に作った。その長さが百閒(180メートル)あるところから「百閒猿尾」といわれるようになった。
『大巻山』の所以は、山の様に突き出た風景の南側(川下)で常に大きな渦を巻いて流れていた風景から称される。お囲い堤の完成は慶長14年(1608)であった。その頃から木曽川を挟んだ尾張と美濃の風景が大きく変わった。

「木曽川奥町八景」

1、川原の秋月
初夏から晩秋にかけて、白砂の上を月夜に散歩する趣
2、堤防の青嵐
渡船場から川下に当る林中、涼風来る所木の間がくれに白帆の上下する旅
3、渡船場の扇帆
夕陽、まさに河畔に迫る時、白帆の夕凪にゆるく下る旅
4、了泉寺の晩鐘
渡船せんとして艫(ろ)の音やんだ所に、了泉寺の晩鐘静かに響く様
5、伊吹の暮雪
白雪累々たる伊吹を渡船中に見る、渡船場上草原の堤防上から見た伊吹山
6、西猿尾の落雁
渡船場西の猿尾に立って川下を見る時、多度方面をさして美濃路を落ち行く雁
7、堤防の夜雨
了泉寺裏堤防に秋雨のしとしとと降りかかる雨珠に堤防の大松のあたり
8、奥町の祭橋
東より(若宮神明社)神社に正面してみた景

大巻山と伊勢鳥居

伊勢鳥居

この大巻山は神領地として神宮のご遷宮のとき、筏の御用材が伊勢湾に入る為に綱の締め直しをする場所でした。宿は氏神の若宮神明社があたりました。
この神縁により、今では「鳥居・標」が設けられ伊勢神宮の遥拝所として多くの人に参拝され、御遷宮のときには祭り・儀式が行われます。その中に本神社の奥宮もあり、上には渡船もありました。
この鳥居は、昭和28年遷宮の時に神宮より下げ渡された、第3の鳥居と聞きおよんでいます。

奥宮周辺の今昔

昔の奥宮周辺

今は昔、交通機関も無く、往来を船に頼っていた頃、この地域は木曽川の流水によ って発展して来ました。この地の織物や物品を、浪速・名古屋方面へ運び出す人々また出入りする船や笠松港(羽島郡笠松町)まで上り下りする船、奥町と羽島市をつなぐ「奥町渡船」、また周囲の人々も生活の一部として利用していたようです。
昭和30年代の夏季にはボートやヨットを浮かべ、「川の家」が催され金魚の放流などもあり賑わい、生活の一部と遊行の場となっていました。また時には、伊吹山山脈や周囲の景色を眺めながら、川風が川辺の松にあたる爽やかな音を聞き、小舟を浮かべて酒などを酌み交わし優雅に遊ぶ姿も見られたようで、その当時の歌詩(奥町誌)がある。
「旅ころも きその川辺に 宿りして 涼しき瀬々の 月を見るかな」本居宣長
「あずま路や 尾張の国は山遠の 田どころ広し 千町八千町」本居宣長
「暮渡二午越水一 鴻雁悲二数声一正觸二離郷意 既傷二遊子情一行々且麗望雨晴尾州域」細井平洲
「大かたに仕えまつらん 八束穂に 秋の穂たは 栄たるかも」田中道麿
「筏上に とれば遠山も 秋の月」暁台
昭和40年の後半頃までは、堤防まで良く見え、湿った砂場にシジミが、川面に小魚の姿がよく見え、人々がサラサラと流れる水辺で遊ぶ姿がよく見られましたが、今は川の中まで木が茂り川辺まで行くのが困難で、水も汚れて対岸も見通せない状況となっています。
また今は、交通機関の発達や諸事情により、笠松港への往来も川下の馬飼大橋のダムにより無くなりました。また奥町渡船も無くなり、今は当時の面影を見る事も出来なくなりました。

奥町渡船

奥町渡船

「奥町渡船」は、愛知県一宮市奥町(旧奥村)若宮神明社の西側左岸と岐阜羽島市正 木村の右岸をつなぐ渡船で、この両岸の地は古くから絹織物が盛んで尾州織物・美濃縞の一大生産地で、交通の手段として渡船の必要性が高かったと思われ「奥村の渡し」は享保(1716)年間にはあったようです。

奥町渡船
奥町渡船
奥町渡船
奥町渡船
奥町渡船

現存する書類によれば「持ち株」制で、明治44年(1911)3月の渡船事業権利は奥村だけが持ち、持株四株の岩田銀之助が営業管理にあたり、二株を大橋と野々垣が、残りを今枝・尾関・大橋・高御堂・市川・栗田・大橋の7人で所有した株主組織であった。それ以前の書類として明治18年と20年の約定書や証券、大正時代の金銭出納簿等が現存する。
右岸に接岸する道路が無く正木村光法寺柳原の私有地(岩田、今枝、尾関、野々垣が所有)を道路まで使用し、奥町の県道(現在木曽川緑地公園)とを結ぶ渡船です。当時で、客は1日平均200人程で渡し賃が一人3銭で有った。船は30人乗り位の小舟で櫓や帆によって運行し約30分程度で対岸に着いた。
昭和25年頃までは往来も多く賑わったようですが30年代に入り交通機関や自動車の発達により利用する人は激減、収益も上がらず株主も減り協力・援助・補助も無く最後は岩田銀之助(本神社宮司家)の一軒が日に何人か渡る人のために止めることが出来ず運営していた。
羽島市正木町と一宮市玉井高畑を結ぶ尾濃大橋が出来た昭和57年2月に、建設省が正木村の私有地(現河川敷)を買い上げ廃止となる。不思議なことに、橋の渡り初めには奥町渡船の関係者が誰も参加していない。
当時を偲ぶものとして、奥町・渡船場跡の碑と、昭和3年11月に建てられた奥町駅前の北西角にある渡船場への「道しるべ」の碑二つが残る。